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Namibia Tee
¥4,000
生きることのふさわしさと曖昧さ それでも俺は生きていたいと思う。 ショットガンで頭を撃ち抜いて死んだカート・コバーンは“Lithium”の中で I'm so happy 'cause today I've found my friends ... They're in my head と歌った。ドラッグについての曲なのは歌詞を最後までたどれば明白だが、タイトルが”Lithium”なところから、この曲は双極性障害という病気を、ドラッグという卑近な例を出して歌っているに過ぎない、と俺は思っている。なぜなら、Lithium、つまり炭酸リチウムを、俺も毎晩服薬しているからだ。 鬱病だと思っていたものが双極性障害Ⅱ型だということが判明したのは2年ほど前だったが、俺は自分の「障害とか病気」について強く語ろうとは一度も思ったことがない。正直に言えば、語ることによって「障害とか病気」が激しく内面化されることを恐れている。一度アイデンティティに癒着したそれらは、自分の生き方と引き剥がすことはなかなか難しくなるからだ。 だから、それを別のことばで置き換えたいといつも思っている。ただ、「特性」としてしまっては、少なからずある負の側面の大きさに対して釣り合わない気がするし、「私らしさ」ではまったくもってない。 気分が沈んで三日間風呂に入らず会社を休むこともあれば、朝から掃除機をかけて風呂掃除をして、それに飽き足らず断捨離をはじめ、苦労して手に入れたTシャツを二束三文でセカストに売ってしまう時だってある。7年以上、眠気とは無関係の生活を送っているし、一度眠りにつけば12時間寝てしまう。 「(病気、障害なんだから)そういうこともあるよね」と俺は俺に言いたくない。 ただ俺は、生きるにふさわしい生き方をしたいだけだ。そこにはっきりとした病名がついたとて、変わるのは薬の種類くらいだ。10種類の薬を、ハリウッド映画に出てくるオレンジ色のピルケースにわけている。それを寝る前に水で流し込んで布団に入るだけの、ただの人間でありたい。このオレンジ色のケース抜きでは、俺は自分のうちにある感情の濁流に飲まれて死んでしまうし、眠ることすらままならない。ただそれでも、薬が必要なだけの、本当にただの人間でありたい。 ——— 映画「ナミビアの砂漠」を見て、Tシャツを作った。町田の雑踏を歩きながらリップを塗り、大股で歩く主人公、カナ(河合優美)が着ているロンTがかっこいいと思ったからだ。 あらすじや考察はGoogle検索に譲りたいと思う。 ひとつ映画の流れを言うならば、カナは映画の後半でそれを患い始める。カナはカナのまま、暴れたり、落ち着いたりしながら、ナミビアの砂漠のライブカメラを見たりする。 俺はカナの生命、存在に圧倒された。それは、「人間でありたい」という俺自身の欲望を、カナが発露しているように見えて仕方がなかったからだ。 カナの病名は明かされない。人々が「障害や病気」と呼ぶものは、曖昧なまま、内面化されず、しかしカナはそれと向き合い始め、それと向き合うことでパートナーと向き合い始め、そこで映画は終わる。 ——— ほんの一例として捉えて貰えれば良いのだが、MBTIによって自分の性質を細分化し、「自分はこういう人間だ」という規範を内面化することが大きな流れになっている気がする。「繊細さん」絡みの本が書店にいけばたくさん並んでいるし、ビジネス書はセルフマネジメントの文字でいっぱいだ。 たぶん、自分の「特性」を把握し、ハックすることによって、円滑になるなにかがあるのだろう。 ただ俺はどうしても、それを彼岸のものとして眺めてしまう。 砂漠の向う側にある世界の、人間たちの、自分を見つめ直すための遊戯に見えてしまう。 俺に病名がついているからではない。「こういう人間なんだから、こういう風に生きていくのはしょうがないよね、こういうところがあるけど、それも特性だよね」と、自分を硬直した存在として捉えようとすることに、強く反発したい。 生きるにふさわしい生き方をしたいと思う。そして、皆、生きるにふさわしくない人間などいないのだから、抱えながら、わかられないまま、わからないまま、すべてが曖昧なまま生きていける世界があればいいのにと思う。 そしてその世界は、全体がそうなるわけではない。自分が自分と対話をし、ときに周辺を恨みながらも、やわらかいまま閉じていかないことでしか生まれない。 自分にとっての生きるにふさわしく曖昧な世界が、いつか必ずやってくることを強く祈りながら、俺は今日も薬を飲む。カナは町田で生きている。人々はお酒を飲む。セックスをする。音楽を聴く。友達と電話をする。 何も抱えていない人なんていない。だから全員が、何かを抱えたまま、何者でもない自分で生きていけることが出来たら、どれだけ幸せなことなのだろう。柔らかく温かな世界で闘争するために作ったこのTシャツを着て、あなたはどこを、どういう風に歩くのだろう。 モデル身長151cm 着用サイズL ※XLサイズはすぐに発送できます ※他サイズは受注がまとまり次第、制作・発送します。(2週間前後)
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MANCHESTER TEE
¥3,500
俺はwhite out bike studioという自転車屋を営んでいる。根城/部室にしている東長崎のMIA MIAというカフェのオーナーにも「チャリ屋さん」と呼ばれている。 ある日、THE STONE ROSESのTシャツを着てMIA MIAを訪れたところ、ローゼズの輪切りのレモンロゴをして、スタッフのごうくんに「自転車の車輪かと思いました」と言われた。white out bike studioのロゴが決まった瞬間だった。 結論から言うが、俺の中の「かっこいい」はすべてoasisから始まっている。2007年、実家の部屋のコンポにDefinitely MaybeのCDを入れ、再生ボタンを押した瞬間に、それまでの俺の「かっこいい」の概念はギターの轟音とともに崩れ去り、聴いたことのない英語の発音(ひどいマンチェスターなまりは金属バットの漫才における拡張された関西弁と同じクールさがある)によって書き換えられた。 oasisにハマった俺は、そこから「ハマる」ということにハマっていく。 ——以下読み飛ばし可—— Oasisが住んでいる都市はマンチェスターというらしい。マンチェスターといえばユナイテッドしか知らなかった俺は、oasisが熱心なサポーターであるマンチェスターシティから世界史への興味が開かれる。 世界史と言っても教科書の世界史ではない(山川の世界史Bは本当に面白いが)。より正確に言えば、「自分も世界史の住人である」という帰属意識だ。 欧州でサッカー観戦が盛んなのは、おそらく日本よりも内戦が盛んだったからだろう。そして自分の「街」への意識が芽生える。イオンすらない俺の住んでいる伊勢崎市は街なのだろうか。東京に行けば「街」があるのだろか。 そしてoasisにとって「街」の先輩であるストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズを聴く。それまで「ダメ・ゼッタイ」以外の何物でもなかったドラッグとカルチャーを知る。セカンド・サマー・オブ・ラブなる現象があったことを知る。人間の意識や音楽のムーブメントが「現象」とされることがあるのか。「セカンド」ってことは「ファースト」があるのか。 1969年のジミ・ヘンドリックスが国家を歌詞無しで演奏したことを知る。幼い頃に見たベトナム戦争の映画と音楽が結びつく。そのすぐ後ろには、親のカーステレオで散々聴いたビートルズが控えている。ビートルズが「親の音楽」から「俺のロック」になる。ということは、と実家の納戸のレコード棚をみると、ザ・フーやジャニス・ジョプリンが並んでいる。親もまた世界史の住人だったことを知る。 再びoasisに戻る。クール・ブリタニカというイギリス政府の政策と、ブリットポップという概念を知り、そこから近現代イギリスの都市における格差社会を知る。イギリスは格差社会が日本よりひどいらしい。だから労働者階級の出であるoasisは当時のイギリス労働者階級のヒーローになった。では、blurの知的な垢抜け具合も好きなのはダブルスタンダードなのだろうか?俺の親はブルーカラーで油まみれの仕事をしていることと俺がoasisを好きになったことを結びつけるのはいささか自意識が過剰すぎるのではないか?むしろ、中産階級を生産しようとしている偏差値63の高校に通う俺は本当はoasisなんか聴いてちゃいけないんじゃないか?(そして美大卒の母親と自身の偏差値のギャップはその後レディオヘッドによって一旦の解消を見る) ——終了—— 以上のことが3ヶ月で起こった。3ヶ月だ。oasisは俺を完全に、世界/音楽/街/アイデンティティに「ハマらせた」。 その後いま現在2024年に至るまでの17年間で、俺はたくさんの「かっこいい」に触れ、ハマってきた。それは映画であり、文学であり、場所であり、学問だったりした。 だから、俺はどうしようもなく「かっこいい」ものを愛している。あの3ヶ月によって構成された世界の見方は、ときに歪み、ときに忘却されど自分のど真ん中にある。 だから俺が作るものにはすべてoasisが流れている。ひきつけた言い方をあえてするが、俺の作る、俺が世界で一番かっこいいと思っている自転車たちには、音楽が、世界史が、アイデンティティが流れている。 それを広めたくて仕方がない。俺は俺の信じる「かっこいい」を世界にさらしたくて仕方がないのだ。 だとしたら、oasisの源流である「あのロゴ」と、彼らを生んだマンチェスターシティのカラーのTシャツを、ショップオリジナルのマーチャンダイズとして出すべきだと思った。その背中には、ストーン・ローゼズの輪切りのレモンをサンプリングした当店のロゴをデカデカとプリントし、着る人に背負ってもらうことにした。 Oasisはネブワースでのライブで「This is history」と言った。まさにそう、その瞬間こそが歴史なのだ。自転車に乗っている時間も、これを書いている時間も、Tシャツを着ている時間も、すべて歴史なのだ。 ここに書いたのは俺の話ではない。すべての人がそれ以外にはなれず、歴史の住人だ。oasisが俺に教えてくれたのはそういうことだった。 歴史を着てくれ。 MANCHESTER!!!!!!!!!!!!!!!!!! ※XL,Lサイズはすぐに発送可能 ※その他サイズは9/14までの受注、その後発送となります Model:yagi hiromi (https://www.instagram.com/_yagihiromi) 161cm/Size:L
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Sigh 1:都市のモキュメンタリー
¥2,500
私は今の部屋と今の部屋で生きている。何をして生きているのかを描写するのは難しい。 窓際においたニンテンドースイッチの上に溜まった埃が太陽に照らされて美しく輝いているのを見ているときもあれば、灰皿に溜まったタバコの吸殻の写真を撮る時もあるし、風呂上がりの格好のまま母親と電話をしているときもある。 前開きのパジャマ姿のまま最寄りのセブンイレブンに住民票を取りに行くこともあれば、早起きして1kmほど自転車を漕いで2000円分のパンを買ってコーヒーを入れたりするときもある、 生活空間は、すべて、書いたり撮ったりすることはできない。原理的に言えば、生活は残らない。ただ私は、この街のこの部屋に生きている。 そういう風にして、この世界、この東京には、残されていない生活がたくさんある。今のこの部屋の前の住人のことを私は何も知らないように、あのリユース古着屋がデニーズだった頃に過ごした学生たちの会話を聞けないように、残されていないが確かに存在した痕跡の地層の上に、私たちは生きている。 その地層の分厚さを都市と呼びたい。 だとしたら。「事実と虚構の間にある余白」を一冊で描こうと思った。その余白にはきっと、「僕/私」が照らし出されるだろう。その照らされた分だけ、読まれた分だけ、私には見えない(という点において非常に都市的な)地層が重なり続けると信じている。だから、読まれてほしいと強く思う。 ------- 2023年にZINEとして刊行されたSighのリイシュー・リマスター版。 「都市のモキュメンタリー」というテーマのもと、「あり得たかもしれない、しかし存在しない誰かの生活」を描く写真たちと、掌編”指”、実在しない人物の一ヶ月の記録、”不眠日記”によって構成されている。 A4フルカラー、54ページ
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Sigh 2:美しい共犯
¥1,500
SOLD OUT
最近文章を書いていなくてまずいな、と思ったときに、インスタグラムの質問募集のようなスタンプに【あなたの言葉を受けて文章を書きます】と書いたところ、そのほとんどが「喋り言葉」だった。そしてそれに対して、返答ではなく呼応する文章を書くということがライフワークになっていった。いわば、リハビリと思って始めた編み物が本格的な趣味になってしまったようなものだ。本書はそうやって始まっている。 ラジオを聴いていればわかるように、「書き言葉」に「喋り言葉」で応答するというケースはそう珍しいものではない。 しかし書き言葉で話し言葉に呼応されるとき、私は自分の内にある「言葉たち」に対して、一人で文章を吐き出すときより慎重になっていることに気づいた。 大学院生のときも文章が書けなくなった時があった。その時、指導教官に言われれた言葉がある。 曰く、「本を読んで気になった箇所をすべて写経しろ、様々な本を写経する内に、様々な著者の文体や、癖が君の中で混ざり、きみだけの文章がかける日がやってくる」 私はこのライフワークを続けていくうちに、自分の書き言葉がぐにゃりと曲がるのを感じた。喋り言葉的になったわけではない。ただ呼応するだけだったはずのそれは、いつしかその呼応を享楽的に楽しむ営みへと変化していた。 ここから、「喋り言葉」を削ぎ落としたときに残される変形した私の言葉たちをなんと呼ぼうかと考えた。随筆でもなければ日記でもない。となると、と思い、【美しい共犯】以外ないだろうと思った。1文に対して並置した写真は私が撮ったものだが、文章に対しての共犯関係にある。それとの関係性があるのかないのかを読み手に委ね、何かしらの呼応が起きれば楽しいと思った。 書くことはとても難しく、とても簡単だ。ただ書く、ということの困難さと楽しさが伝われば嬉しい。 B6、モノクロ、110ページ
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新規自転車オーダー/カスタム カウンセリング
¥1,000
あなたの好きなもの、嫌いなもの、許せない風潮、愛してやまないものなどを聞いて最適な自転車を作ります。 まずはカウンセリングから行いましょう。買うもよし、買わないもよしです。 ただ、作るとなったらあなたの持っているスニーカーを束にしても叶わないくらいの代物を組み立てさせていただきます。 カウンセリングは直接でも、オンラインでも承ります。 (システムの都合上値段を設定させていただいておりますが、カウンセリング終了後に返金させていただきます。)
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white out bike stutdio "Lemon Wheel Sticker"
¥500
3枚セットです。 耐水性、耐天候性。5cm×5cmなのでスマホケースの中にも入るサイズです。 単品でも、送料無料の端数合わせにもどうぞ。
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Know War tee
¥3,000
このTシャツの売り上げの半分はパレスチナ/ガザに寄付されます。 自分は何にも加担したくないと思っていた。 2011年3月、新宿駅で反原発なのか、原発推進なのかを聞かれたことがあった。 新宿駅は計画停電で真っ暗で、夜空に星が見えた記憶が鮮明に残っている。私は彼に、「どちらでもないです」と答えた。 その夜の体験はしばらくの間、自分を突き動かすことになる。ありもしない真ん中を行くこと。時に無関心だと思われようが、絶えず両方の極に関心を払い続けることで、それは可能だった。 しかし今、パレスチナで起こっていることは違う。虐殺とは、歴史上のことだと思っていた。もしかしたらイスラエルが正しいのかもしれない。ただ、なんの罪もない子供たちが空爆に晒されている現実を物理的に直視できない私たちは、「どちらでもない」という立場を、どうして取れるだろうか。 この場合の自分にとっての正しさとは、ある正しさと正しさの中間に、ハンモックのようなものをかけ、ゆらゆらとそこで寝ることにすぎない。 私たちの生活に虐殺は関係ない。だから関心を示さない。あるいは、それに関心を示すことで、友達が減るかもしれない。痛いやつと思われるかもしれない。「そういうポーズをファッションだと思われるかもしれない。」 だからファッションアイテムにした。なぜなら、虐殺に関係のない私たちにとっては、戦争に反対することはファッションでもいいと、俺は強く思うからだ。まずそこで起きていることを知ること。あるいは、知ろうとすること。少なくとも、このTシャツを手に取った人たちは、パレスチナで起こっていることに関心を示す、という烙印を自分に推すことになる。 しかしそれはファッションの刻印と一緒だ。シュプリームを着ている人はシュプリームが好きな人、このTシャツを着ている人は今起きている戦争、虐殺にプロテストする人。ただそれだけの、ファッションだ。 そしてこのTシャツの売り上げの半分はパレスチナに寄付される。ノーウォー。何回でも言う。戦争のない国で、戦争に反対する馬鹿馬鹿しさなんか今は考えるな。ノーウォー。虐殺に反対するという片棒をファッションで担いでもらう。イージーに行け。俺たちができることは真摯に、イージーでいることだ。イージーに戦争を知る手段なんかそこらじゅうに転がっている。 ファッションから始まり、知ることに繋がり、アクションする人が増えてくれれば良い。だからまずは、このTシャツをイージーに買ってほしい。イージーな値段設定にもしたつもりだ。 それ何?と聞かれたら、「俺/私なりの抵抗だよ」と言えばいい。イージーに抵抗しよう。それが私たちができる第一歩だ。 ※8/15までの受注生産、その後発送します。お手元に届くまでお時間いただくことをご了承ください。 ※商品には混色のため、単独での洗濯をおすすめします。 モデル着用サイズM モデル身長170cm (https://www.instagram.com/kaho.ttt/)
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Love Your Enemy tee
¥4,000
SOLD OUT
渋谷のハチ公前で行われていたプロテストレイヴに行ってきた。 イスラエル軍は依然としてガザへの侵攻をやめていない。私はそれにどう怒ったら良いのかわからなかった。それを探るために行った。 「敵を愛せ」というスローガンをTシャツに携えようと思ったとき、私はとある隣人に相当する人間を憎んでいた。 それでも、やはり敵のことは愛さないといけないと思った。松本大洋の漫画「ピンポン」で主人公・ペコが、宿敵・ドラゴンに対し、「愛してんぜ、ドラゴン」というセリフのように、自分と戦う相手に対し、そういった態度でいることを是とすべきだ、と強く思っていた。 しかし今日のプロテストレイヴではどうだっただろう。私はわたしの怒りの在り処がわからなくなった。 戦争は、人種差別は、ホモフォビアは、敵なのだろうか。 疑念がずっと渦巻いていた。 壇上で強い言葉を吐く人たちにアジテーションされている自分もいた。 しかしそれより強く怒りを抱いたのは、その場にいた、盛り上がり、踊るだけの人間たちだった。 シュプレヒコールではなく、スピーチの段になると、「もういいよ〜〜」と笑い、ただ大声を上げているだけの人間に、私は苛烈に怒っていた。 帰りの電車で気づいた。彼らは私なのだ。あるいは、私達なのだ。 無自覚に差別をし、女性を見下し、ただ自分たちの楽しさ、居心地の良さに甘んじようとしている私を、私は彼らの中に見て、そして猛烈に苛立ったのだ。 敵とは、彼ら=私達なのだ。どれだけデモに行っても、声を上げても、それが「行動している」だけということに格落ちしてしまうことを避け、デモに行かなかった私への怒りだったのだ。 しかし声を上げることは、私にもできる。私の敵が私であるかぎり、愛はどこにも届かない。 だから私は、敵を愛したい。敵を愛し、敵と連帯し、行動をしたい。私は、昨日までの何もしなかった自分を愛したい。 そのうえで、ホモソーシャルに、同性愛差別に、戦争に、抗いたい。戦うことと、抗うことと、敵と、……そのすべては、言葉によって分節されている。 嫌いな人間と肩を組めない限り、世界は変わらない。 だからWhite Out Bike Studioのテーマはこれだ。敵を愛せ、Love Your Enemy。 革命は、自分と手を組まない限り起こらない。 ---- 6.1オンスの厚手、MADE IN USAのBAYSIDEのボディを採用。ガシガシ着倒せます。 (在庫ない場合、同等品にて制作を進めます。) モデル着用サイズ…XL モデル身長…177
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Love Your Enemy tee (short)
¥4,000
SOLD OUT
渋谷のハチ公前で行われていたプロテストレイヴに行ってきた。 イスラエル軍は依然としてガザへの侵攻をやめていない。私はそれにどう怒ったら良いのかわからなかった。それを探るために行った。 「敵を愛せ」というスローガンをTシャツに携えようと思ったとき、私はとある隣人に相当する人間を憎んでいた。 それでも、やはり敵のことは愛さないといけないと思った。松本大洋の漫画「ピンポン」で主人公・ペコが、宿敵・ドラゴンに対し、「愛してんぜ、ドラゴン」というセリフのように、自分と戦う相手に対し、そういった態度でいることを是とすべきだ、と強く思っていた。 しかし今日のプロテストレイヴではどうだっただろう。私はわたしの怒りの在り処がわからなくなった。 戦争は、人種差別は、ホモフォビアは、敵なのだろうか。 疑念がずっと渦巻いていた。 壇上で強い言葉を吐く人たちにアジテーションされている自分もいた。 しかしそれより強く怒りを抱いたのは、その場にいた、盛り上がり、踊るだけの人間たちだった。 シュプレヒコールではなく、スピーチの段になると、「もういいよ〜〜」と笑い、ただ大声を上げているだけの人間に、私は苛烈に怒っていた。 帰りの電車で気づいた。彼らは私なのだ。あるいは、私達なのだ。 無自覚に差別をし、女性を見下し、ただ自分たちの楽しさ、居心地の良さに甘んじようとしている私を、私は彼らの中に見て、そして猛烈に苛立ったのだ。 敵とは、彼ら=私達なのだ。どれだけデモに行っても、声を上げても、それが「行動している」だけということに格落ちしてしまうことを避け、デモに行かなかった私への怒りだったのだ。 しかし声を上げることは、私にもできる。私の敵が私であるかぎり、愛はどこにも届かない。 だから私は、敵を愛したい。敵を愛し、敵と連帯し、行動をしたい。私は、昨日までの何もしなかった自分を愛したい。 そのうえで、ホモソーシャルに、同性愛差別に、戦争に、抗いたい。戦うことと、抗うことと、敵と、……そのすべては、言葉によって分節されている。 嫌いな人間と肩を組めない限り、世界は変わらない。 だからWhite Out Bike Studioのテーマはこれだ。敵を愛せ、Love Your Enemy。 革命は、自分と手を組まない限り起こらない。 ------- キッズTシャツをクロップにアレンジしたベーシックなクロップドTシャツです。 タイトめのシルエットでおすすめです! モデル着用サイズ…130 モデル身長…165
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DISTRACTION BIKE STUDIO TEE
¥3,600
10%OFF
10%OFF
ボディはアルスタイル(アメリカンアパレル)なもんで、ゴワゴワ、ガシガシ着倒せます。
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小川哲太朗 写真集 "THE AMBER"
¥2,000
小川哲汰朗による写真集 ---------- ” 未知のものに魅せられ、生成に対して本質的に敏感な細心な思想だけが詩に接近できる” ガストン・パシュラール「空間の詩学」 ---------- これは、10年間取り続けた写真より選ばれた40枚の写真の連なりである。 これは詩である。 これは生きられた時間である。 これは生きられた空間である。 そして何より物質で、そして写真だ。 サイズA4/40ページ ---------- (跋文より) あの子が書いていたブログが消えたことに気づいたのは、自分がブログを書かなくなってから、少し時間が経ったあとだった。 あの子、と言っているけど、ぼくは彼女と面識もないし、名前も顔も知らない。2011年のある日、自分がたまたまグーグルで検索した言葉の連なりに、たまたま彼女のブログが引っかかり、たまたまそれを見つけただけだった。 そのブログには、援助交際をしていたおじさんを好きになってしまったことととか、高校生にしては少しませている曲を再生しているiPod Classicの写真とか、友達の悪口とか、そういうことが淡々と書かれていた。"誰にも見られていない素振り"なのだろうか」、という妄想も思い浮かばないほどに、ただただ、文章と、iPodの写真が、淡々と上げられていた。 僕が彼女のブログを見なくなったのは、決意の元ではない。なんてことはない、自分が大学三年でサークルに入り、彼女ができ、ゼミが忙しくなってきて、なんとなく、本当になんとなく見なくなって、ある日「たまたま」ブックマークを開いたら404 not foundと表示されていて、「そっか」と思ったのだけ覚えている。 ----- 僕はこの話を何度も何度も書いている。そして書くたびに、己の無力さの中へと落ちていく感覚を覚える。 淡々とした誰かの時間を、自分が作為をもって書くことで、彼女のブログの淡々さを漂白していくような罪悪感。 その感覚を前提として自分が何かを表現することで、「淡々としているということを表そうとしている感」のようなものを自分は出そうとしているのではないか、という自己嫌悪。 これらが自分の周りにぐるぐると巻きつき、身動きが取れないまま沈んでいく感覚があった。 俺が何かを表現する/しよう、と思うときに必ず、「あのブログに俺はなれない」と思ってしまう。そして、自分の表現を始める。往々にして、そのブログの話をしないままに。 そのブログ、そしてそれを見ていた俺の時間、空間を思い出す瞬間は、己を表そうとするときだけだ。その瞬間には必ず、あのブログを見ていた俺の時間が、半自動的に含有されてしまう。 不思議なことに、彼女のブログのことを日常生活の中では思い出すことはないのだ。 —— しかし、胸を張って言えるが、あの時間、あの時間があったあの空間に憧れているときの自分へ向ける感情は、ノスタルジーではない。 おそらく、彼女のブログが生きられていた時間は、空間の中に圧縮されていて、それ自身が流れていくことを拒みんでいる。それが故に、持続したものの琥珀として、俺の中にあるのだ。 俺は、彼女のブログになることは可能だろうか。 可能とも言えるし、不可能とも言える。なぜか。 私たちの生きる世界には、生きられた空間と、時間がある。目の前の、あるいは世界の出来事は、連続していく。出来事は現象する。 それは流れたり淀んだり、引き伸ばされたり断絶されたりしながらも、確実に、あるのだ。 誰かの生きた時間と空間の中で、上で、下で、中で、外で、私たちは生き、それと同時に生きられている。現象的に、生はある。 私たちが死という有限性の中で出会うことができる生きられたものたちは限られている。 だからこそ、琥珀になる「かもしれない」未来の前借りをせずに、私達は今を生き/生きられねばならないのではないだろうか。 私たちの生は、見知らぬ誰かの琥珀になる「かもしれない」。しかし、琥珀になることを目指して生きることは、生きられたものではないと確信しようとして、俺は生きているつもりだ。 その夢想とも妄念のような、自分の中で濁濁と煮えたぎるなにか、つまり”確信(核心)に近づこうとする行為"が、己がなにかを表現する、あるいは、俺が生きる/生きられることへの僅かながらの足がかりになることを、今は願ってやまない。誰の中にも、きっと、琥珀はあるのだ。 小川哲汰朗